総研ノート:世界の各地から
ウオンピアに助けられて
保育園に通わせた理由
2004年9月、三歳の長男凛がミラノ市立幼稚園に入園した。音楽ジャーナリストの私の夫は日本人であるが、ミラノを拠点に仕事をしている。だから、凛は2001年に私の実家のある愛媛で生まれた後は、ここミラノで生活している。私たちの第一子(長女)響は彼よりも2歳年上で、彼が入園したこの幼稚園に、すでに2年前から通っている。だから私達夫婦は自宅からも近く、響が何の問題もなく喜んで通っているこの幼稚園に何の疑いもなく入園させた。
幼稚園入園前の一年間、響の時にもそうしたように市立の保育園に通わせた。本来ならば、保育園は勤労する母親をもつ子どもたちのために門を開いているのである。当時私は完全な専業主婦であったが、あえてこのふたりを一年間保育園に送った。
理由は言葉の問題だ。
幼稚園に入園する三歳の時期になると、子どもの心の中で「恥ずかしい」という感情が芽生えてくる。
私たちの子ども二人の場合、他の子どもたちと自分とを比較したとき、流暢にイタリア語(以下伊語とする)を使えない自分に対し自信をなくし、幼稚園に通うことを拒否し始めるのではないかと、私たちが不安に思ったからである。日本では、四月生まれから翌年の三月生まれの子どもたちを一つの学年でまとめるが、イタリアの場合はシンプルに一月から十二月生まれの子どもたちを一つの学年と決めている。だから二月(凛)三月(響)生まれのうちの子どもたちは、イタリアの場合だとそれぞれの学年のなかで早い方の生まれとなる。したがった、彼らが保育園に二歳で入園した頃には、クラスの中には、まだ二歳を迎えていない子どもも何人かいて、幼児語も話せないイタリア人(以下伊人とする)も当然のことながらいた。この様に、言葉の面において、周りもまだ不完全な状況のなかで、伊人の子どもたちいっしょに自然の言葉を習得させるのがもっとも彼らにとって良い方法だと、私たちは判断したのである。
響の場合
響の場合には、私たちのその目的をほぼ成功に近い形で果たすことができた。保育園入園前、私は彼女に対しほぼ一言も伊語で語りかけをせず日本語だけを使っていた。そのこともあり、また、私が凛を愛媛で出産した時(彼女が二歳を迎えた頃)の愛媛での滞在も大きく影響し、彼女の日本語の会話にはほとんど問題がなく、同年代の他の子どもたいと比べてもその能力は高い方であった。その彼女に対し、私は伊語で数の数え方も色の名前も教えないまま(おしっこ、うんちだけは最低限の生活の為に教えておいたが)現地の保育園に彼女を入れた。
担任の保育士からは、できるだけ伊語で話しかけるようにと何度か注意されたが、私たちは相もかわらず日本語のみで彼女と接した。理由は、外国人である私たちから伊語を学ぶのではなく、伊人から本物の伊語を習得してもらいたいということがひとつ。第二の理由として、彼女の日本人としての人格形成の為に母国語の日本語を日本人の両親を通して学び,日本人であるという自覚を持って欲しいと思ったからである。
三つ目は「日本語は家での言葉」「伊語は社会(幼稚園)の言葉」という風に、それぞれの言語の使う場所をしっかり分ける事により、完全なバイリンガル(中途半端に混ざり合わない)を身に付けさせたいと思ったからだ。私たちが希望したとおり、彼女はその一年で、自然に伊人の社会の中で伊語を習得し、社会にとけ込み友達もできた。日本語の会話能力も衰えなかった。三歳の秋、幼稚園に入園したとき、私たちの選択が正しかった事を確信した。理由は、伊語の能力の問題だけではない。新しい、慣れない環境の中で、すべての事に対し手探り状態にある響を一年間保育園で共に過ごした友だちが、彼女の心の支えになってくれた事だ。外国人として萎縮する事なく、のびのびと幼稚園に慣れる事ができた。この経験をお手本にして凛も自宅から近い市立保育園に入園させた。
響とは違った凛
彼が入園した保育園は二歳児のみを受け入れ、全員で二十八名、保育士四名という小規模のもので雰囲気も非常に家庭的であった。さらに私にとって幸運だった事は、保育士の中に響の友だちの母親がいて、保育園での凛の様子を機会があるたびに、細かく教えてくれた事であった。響の時と同じように、彼の場合も全く伊語を知らないで入園した。ただ、響と大きく違った所は、日本語も十分に話せないで伊人社会に飛び込ませてしまった、という事だった。保育園に入って友だちができればそのうち伊語を覚え始めると、私たち達は信じていたが、クリスマスが来ても年が明けても彼は伊語も日本語も話そうとはしなかった。
最低限生活に必要な「おしっこ」「うんこ」自分、保育士、友だちの名前くらいしか口にできなかった。私は非常に焦りを感じ、何度か担任の保育士に相談に行ったが、彼女たちはあまり心配をしていなかった。なぜなら、凛が何かを創ったり、描いたり、何かの道具を使って遊びを見つけたりする事の創造性が人並みはずれて優れていたからである。また、友達、保育士に対してキスをしたり、抱きついたりと、愛情表現を大切にするということを保育士たちがは知っていたからであった。先天的障害がない場合、創造力に富み、愛情に囲まれた環境で生活している子どもなら、言語の遅れなどいつか何かのきっかけで取り戻せると、強く主張していた。
凛が幼稚園に
他の三歳児に比べると、日本語も伊語も半分以下にしか扱えない凛に対して不安を抱きつつ,彼を響が既に通っている幼稚園に入園させた。「そのうち友だちができれば言葉も覚える」という期待を抱いていたが、相も変わらず彼は伊語を口にせず、段々と他の子どもの輪から外れ一人で行動する事が多くなった。クリスマス会の時,教室の壁に子どもたちの描いたサンタクロースの絵が飾られていたのだが、凛一人が機関車トーマスの絵を描いており、それを見つけた時私は閉口してしまった。担任からは何度も「伊語で話しかけてするように」という忠告を受けた。
「家庭内では日本語」という方針をかたくなに守っていた私も時間を決めて「これからは伊語の時間よ」と伊語の話しかけの時間を設けたが、その度に凛は「いやー」とヒステリックに怒り、拒否し続けた。
2005年2月、私は、担任から呼び出された。内容は心理学者、もしくは精神科医に凛を診せる必要がある、という事だった。彼らが一番気にしたエピソードはこれだ。給食の時間だった。普段どおり食事を取っていた凜が突然火をつけた様に泣き始めた。心配した担任が近づき理由を尋ねたが、彼は何も言わずただ怒った様に泣き続けている。周りの子ども達も何も知らないようだった。困った担任は響に通訳を頼んだ。響がどうしたのかと聞いてもただただ凜は泣き続けたそうであった。
彼らは、担任としての凜に対する対応を専門家に尋ねたいまた、私たち保護者も専門家に指示を仰いで欲しいという事なのだ。私たちは普通の親として、子どもたちの幸せな幼稚園生活を第一に考えていたので、それに問題があるのであればぜひとも相談に上がりたいと思っていた。日本でこれと同じ様なシーンが見られたりとすれば、その理由のほとんどが先天的な障害の場合が多いので私はとても心配した。彼らは医療機関の一例として、「U.O.N.P.I.A」を勧めた。
ウオンピアに行く
「U.O.N.P.A 」(これよりウオンピアとする。)「幼児期及び思春期にある子ども為の神経精神科グループ」という意味の言葉の略で、ミラノ市内に三ヶ所設けられている。なお、これらは公の総合病院であるファーテベーネ・フラテッリ病院の傘下に属す。よって、社会保険加入者は無料で診察、治療が受けられる。ウオンピアは、名称のとおり0歳から十八歳までの成長期にあり、心理的な問題をかかえる子ども、また先天的な知的障害を持つ子どもたちの為に門が開かれている。専門家グループは、幼児神経精神科医、心理学者、福祉活動家(ソシアルワーカー)言語聴覚士、心理運動療法士、理学療法士で構成されている。ここでの診察、精神分析及び治療は彼らがチームを組み、常に学校や家庭と細かく連絡を取りながら進められる。
ウオンピアでの、凜に関して行われた診察及び治療の始まりを紹介する。まず始めに小児神経科医の診察を受けた。幸運にもミラノにある三つのウオンピアの責任者を務めるオットリーニ医師が凜の担当医となった。一番始めの診察では、彼が母親である私に数々の質問を投げかけた。このときの内容を箇条書きにしてみた。
医師 どのようないきさつでここにきたのか。
私 幼稚園の担任に勧められた。
医師 理由は?
私 凜の言葉の発達が遅れているため、社会性が乏しいと彼らが判断したから。
医師 あなた自身も診察を必要だと思ったか?
私 凜に何らかの問題があるとは思っていたが、必要か否かの判断はつかなかった。
それから医師は凜に関して気になるエピソードを尋ねたが、「日本語においても、伊語においても他の同年代の子どもたちとは言語能力がかけ離れておくれている」とか、「社会性に欠け友だちを作ろうとしない」など、漠然とした事しか言えなかった。このようにして、第一回の診察は一時間を要し、その次のプログラムとして幼稚園の二名の担任と医師との懇談がおこなわれた。
彼らから直接、幼稚園での凜の様子が説明された。その直後、医師と私たち夫婦が面談。その時説明されたのは、それから何回かに渡って心理運動療法士による凜の診察が行われるという事、その診察のレポートを心理運動療法士が医師に提出し、医師によって診断され治療プログラムが組まれるという事であった。これからはこの二名のチームが凜の経過を追う事になる。
一週間後、心理運動療法士の一時間に渡る診察がはじまった。凜を担当したのはアンジェラという定年前のベテランであった。診察は二十畳ほどの部屋で行われ、その中には積み木の様に積み上げられる大きなクッション、色々な色と大きさのボール、レゴ、人形、ままごとセット、お絵かき道具が並べられていた。遊びを通して凜の行動をチェックするのである。私の同席のもと、週に一度四回に渡って診察された。その後、今度は、医師と心理運動療法士と私の三人による面談があり、そこで彼らの分析結果(診断)が説明された。結果は、彼は「自閉症」など先天的障害はないという事、彼の問題は、非常に頑固で柔軟性に欠く性格に原因があるという事であった。彼に柔軟性を持たせる為の治療方法を探す為に、さらにまた週に一度の診察が続けられた。
ウオンピアでのアドバイス
二回目の診察日、心理運動療法士の彼女は大きなアドバイスをくれた。伊語で凜に対して決して「今日の給食何だった?」、「先生と何して遊んだ?」などの質問をしてはいけない、ということであった。質問は、それの答えを強要することになる。それでなおいっそう伊語に対する嫌悪感が増す。だから伊語では「今日は太陽が出ていて暖かいね」、「ママは今日のお昼はピザを食べたのよ」等と、質問ではなく、こちら側が一方的に語りかけ、彼の語彙を増やしてやるように言われた。
早速、帰宅途中に試してみた。自宅付近には運河があり、そこには鴨をよく目にする。その日は、生まれたばかりの鴨の赤ちゃんが二羽泳いでいた。私は伊語で始めた。「あの赤ちゃんかわいいね。兄弟なのかな。響と凜君みたいだね」その時凜が日本語で返してきた。「違うよ。しゅんくんとりゅうくんだよ。凜は赤ちゃんじゃあないよ」と、一年も前に日本で会った凜より小さいいとこたちの名前を出して私に答えたのだ。
それまで彼は、このように理屈が通って流暢な日本語を一度も使ったことがなかったのだ。心理運動療法士の忠告が、魔法使いの魔法の杖の様に思えた瞬間であった。それから私は、アドバイス通り、幼稚園の送り迎えのときだけ時間を決めて伊語で独り語りを続けた。不思議と彼の日本語の会話能力が高まってきた。この経過を通して医師と心理運動療法士がはっきりさせたことは、凜が伊語の意味を理解した上で故意に伊語を拒否していることだった。この事はこれからの凜の治療方法を見つけるにあたって、彼ら二人に大きなヒントを与えることとなった。
日本の保育園で
六月に入り、私たちが日本に帰省する時が来た。伊の学校の夏休みは長い。六月の上旬から九月の上旬までだ。私たちはその期間を利用して、毎年日本で子どもたちを保育園に通わせている。日本語、日本の社会、文化を、同年代の子どもたちの中で自然に身につけてもらいたいからである。
医師からは、保育園に通い始めるときの凜の様子に充分注意を払う様に忠告された。嫌がる凜を無理に新しい集団の中に入れたら、また社会に対して拒否し始めるだけではなく、良くない印象を抱き始めるかもしれないからだ。私たちの心配をよそに思ったよりも楽しそうに喜んで通い始め、そしてありがたいことに、保育士との相性がとてもよかった。凜は彼女になつき、彼女は凜を心から愛してくれているようであった。私は、日本でも一日十五分と決めて、ミラノでもしていた様に、凜に伊語で独り語りをつづけた。
幼稚園を変えるように、とのアドバイス
2005年9月、ミラノにもどってきた。私たちを驚かせたのは、凜が伊語で会話をし始めたことであった。もちろん同級の伊人の子どもたちのようにはしゃべれない。しかし確実に、彼は伊語で友だちとコミニュケーションをとろうとしていて、積極的に社会に入ろうとする姿が誰の目にも映った。
その成果の一つとしてのエピソードを挙げると、凜のクラスメートの母親たちに彼を預かってもらう機会ができた。彼女たちも彼の変化のはとても驚き、「伊語を使えるようになったから預かっていても安心だわ」などと言ってくれた。ウオンピアでの治療も再開した。彼らは凜の伊語の上達だけではなく、人格そのものの成長を認めた。ただ私がひとつ気になったことは、幼稚園の担任が二人とも「何も変わっていない」と彼の変化に気が付いていなかったことであった。
以前の様に週に一度の心理運動療法士の治療が続けられるなか、医師が担任二人との懇談を提案した。十二月上旬、医師と心理運動療法士そして二人の担任との懇談が、一時間に渡って行われたらしかった。それのあとすぐに、医師から私の携帯に電話があった。近いうちに、できれば早く主人も同伴のもと大切な話をしたいとのことであった。「担任二人に問題がある。ただちに幼稚園を変えなくてはいけない」というのが、医師の出した判断であった。医師らは、担任に対し、分析した結果考慮された凜の問題点、及び幼稚園で注意されたい点を説明したところ、全く聞く耳を持たなかったというのである。彼らはとても素晴らしい指導プログラムを立て、その実施を最優先と考えているので、凜に手を差し伸べる余裕など全く無いというのである。この彼らの方針に凜は拒否反応を示し、実際、九月に日本から戻ったばかりのときには上達していた伊語も、元の状態に戻りつつあったのだ。医師らは、この様に保護者に対し幼稚園を否定するような事はめったになく、非常事態だと強調した。
ミラノ市内の幼稚園間で、住所変更以外の理由で移動することは原則的に禁止されている。医師は彼の力で市役所から許可をとることを約束してくれた。私の課題は受け入れ先の幼稚園探しであった。ちょうど転園の許可が降りた頃、日本人の友だちを通して、幸運にも自宅から近くにある幼稚園を紹介してもらった。教えてくれたその友だちは伊人と結婚していて、凜と同じ年のダブルの女児がいる。その子のクラスを紹介してもらった。条件はよいことばかりであった。そのクラスの担任は二人とも保護者からの信頼が厚く、この二名の中傷などは保護者の間でも耳にしたことがない。そしてそのクラスにちょうど一名席が空いたばかりであった。2006年冬休み明け、転園の手続きが整い二週間の入園準備が始まった。
新しい幼稚園で
この新しいクラスには、前述した様に、伊人と日本人のダブルの女児と、凜と一緒に水泳教室に通っているフランチェスカという女児もいた。慣れないメンバーの中に置かれた凜に対して、担任二人は細かい心配りをしてくれ、この女児二名を凜のお世話係に任命し、トイレはどこか、タオルはどこにかけるかなどの案内をさせた。また他の子どもたちに対しては、「凜は今イタリア語を習っているところです。優しい気持ちで教えてあげて下さい」と指導し、凜の得意な事(絵、工作など)をみんなの前でさせ、誉めてやったり、喜ぶ子供達の顔を見せてやったりして凜に自信を持たせてくれた。本当に親としてはありがたい心配りであった。
それから夏に入るまで、常に幼稚園とウオンピアと保護者が細かく連絡を取り合い状況の報告がされた。私が親として彼を見ていても、担任が凜をクラスのなかのひとりの存在として見ていても、また、ウオンピア側からの専門的な目からも、凜の社会性及び伊語の会話能力はうなぎ昇りの状態にあった。そしてなによりも彼は以前よりもずっと幸せそうであった。
2006年の夏も愛媛の保育園で過ごした。ここでも凜に対して愛情深く接してくれた若い保育士のお陰で穏やかな日本滞在となった。そして秋、ミラノの幼稚園に戻り、例年の通りウオンピアで面談をしたとき、医師が新しいプログラムを提案した。今までの治療は、医師と心理運動療法士によってチームが組まれていたが、これからは、心理運動治療士に代わって言語聴覚士が凜の治療に当たるという。理由は、友だちの輪の中で楽しく遊ぶことができるようになった凜の為に、これからは、小学校入学準備に焦点を当てなくてはいけないからだ。
以前より状態が良くなったとはいえ、まだまだ問題点は残っていた。例えば幼稚園で何かを習っているとき、興味もない内容になると、席を立って歩き回ったり別の遊びを始めたりして、決まりに従うことができないのだ。それと、他の子どもたちと比べると遅れている伊語の能力を上げるため、言語聴覚士の治療がより適切だと医師が判断したのである。とにかく小学校入学までにできるだけの準備をしたい、ということで、週に二回、一時間ずつの治療がおこなわれた。この治療には私は入室せず、別室で待機だったので、実際どの様な治療がなされていたのかはわからないが、ゲーム、おもちゃ、本などをつかってされていたようだ。最近(2007年夏)の治療は少しレベルが上がり、大人の伊語レッスン程のこともしているようである。余談であるが、言語聴覚士の治療が必要な子どもは、凜のように精神的、性格的に問題があるケースもあるが、吃音などの発音そのものの問題をかかえているケースもある
愛媛の小学校体験入学
今現在(200年7月)凜は、姉の響とともに愛媛の小学校の体験入学を試みた。帰国前に、医師から、「今回の体験入学については、くれぐれも慎重に、凜のペースに気を配りながら進なくてはいけない。」と念を押された。そうでないと、母国のことを勉強させる為に、と思ってさせているこの経験を通して、逆に母国に対して嫌悪感を抱かせる結果を招いてしまうからだ。
お陰様で、凜は私たちが心配していたよりも、スムーズに、日本の学校に慣れてくれた。親ばかではあるが、彼が満点のテストを持って帰ったときには、わたしは、喜ぶというより、心から安心した。もちろん彼は、まだ精神科医のコントロールが必要な状態であるから、周りに合わせることができず、ヒステリーをおこしてしまい、ご迷惑をかけることもあったが、それでも彼は喜んで、学校に通い、とうとう四十日間一度も休まなかった。というわけで、二ヶ月後は、イタリアの小学校に入学する。イタリアでは、障害児のみならず、凜の様に、何らかの問題をかかえ集団生活が困難な子どもが学校に通う場合、彼らの手助けをする支援教員がひとりずつ付くようになっている。凜の医師は、始めの半年だけでも、凜が学校に慣れるまで付けるよう手配する予定でいたのであるが、ちょうど今年から、支援教員が付くのは障害者の子どものみとなってしまった。医師は、凜の学校の校長に連絡をとり、凜の状況を説明し、できるだけ凜にあった担任のクラスに入れてもらう様に、配慮してもらっている。
私の思い
この二、三年の凜のイタリアでの幼稚園生活を通して、私が思った事を最後に書かせて頂く。前述した様に、ウオンピアで凜が受けたサービスは、社会保険加入者である私たちにとってはすべて無料である。ウオンピアには、ダウン症、自閉症など障害を持った子どもはもちろん、拒食症などの節食障害を持つもの、また、凜のように障害はなくとも、社会に適応しにくい性格を持つもの、また、両親が別居中であったり、離婚したり、家族のうちの誰かが闘病中であったり、また死別したりと、置かれた環境に大きくストレスを持っている子どもたちも通っている。最後に書いた種類の子どもたちの場合、特に生活にそのストレスが支障をきたしていない場合でも、コントロールの為に、専門家にチェックしてもらうのだ。
日本に帰ってそんなことを話していると、「人生どんなことがあっても、周りの愛情さえしっかりしていれば、どうにかなるものさ」と、精神治療に関して否定的な意見を耳にする。もちろん私も、そしてウオンピアの専門家たちも、周りの愛情が一番だとは思っている。
しかし、専門家の冷静な目も必要だと、私は主張させて頂く。たとえば、実際に私が経験した事として、前述したが凜に伊語を覚えさせようとして私は彼に伊語で問いかけを続けていた。私としては、愛情に基づいた行為であったのだが、これを逆効果だと専門家が指摘してくれた。
少し悲しいことであるが、こんなエピソードもある。四年前、ミラノに住んでいた日本人の私の友人が、当時六歳の愛息を残して急逝した。その時、周りはみんな、その息子が気分転換ができる様にと、父親にすぐに日本に引き揚げ、住まいも学校も変え、生活をがらりと変えるように勧めた。そのほうが、幼子も悲しい思い出を忘れると私も信じていた。精神科医の待った、が入った。子どもには、「気分転換」というものは存在しないというのだ。母親との死別などのように非常にショッキングな出来事があった場合には、できるだけ環境は変えず、また、余儀なく変えなければならない場合には、本人の様子に細心の注意を払いながらされなければならないというのが専門家も基本であった。
この最近、日本でも、「心の病院」「心療内科」などの言葉をよく耳にするようになった。また、大学でも、この分野の学部が増えてきたように思う。しかし、その機能はぎくしゃくしているように思えてならない。
イタリアと日本の違い
それでは、日本とイタリアとどこがどうちがうのか。まず、患者側の認識だ。伊の場合、学校及び幼稚園から精神科の診察の必要性を告げられた場合、学校側に腹をたてたりする保護者はあまり聞いたことがない。私だけに限定するなら全く聞いたことが無い。それどころか、親が子どもの何らかの異常を感じた場合、また家庭や学校で問題が生じたときなど、学校から勧められる前に親が精神科医の門をたたいている場合が多い。しかし、その患者側の意識も何もないところから突然沸いて出たのではない。かれらを支える行政があったのだ。
もちろん日本人に比べ、伊人は個人的な問題もあまりまわりに隠さない傾向にあるので、そういった国民性も手伝ってはいると思うが、例えばウオンピアのような精神医療機関で、無料で掛かることができるとなると、安心して治療に臨むことができる。そうして患者が増え、症例も多くなると、この分野の研究レベルは自然に上がる。そうして「精神科医に子どもを診せたら、ひきこもりが治った」、おまけに「成績まで上がった」などと聞くと、精神科に子どもを診せることを躊躇する親は、少ないことと思う。日本の行政がどこまで保険で精神治療を支えているのか私ははっきりとはリサーチしていないが、入院中の母親を持つ子ども、別居中の両親を持つ子どもの心のケアまでも面倒をみてあげて、はじめて機能するのだと思う。
そういえば、何年か前に山口県の社宅で若い母親と一歳の娘を殺害した少年は、母親の自殺という暗い過去を背負っていた。「レッサーパンダ事件」の犯人は、知的障害があったにもかかわらず何の治療も指導もされていなかったらしい。
最後に、私の身勝手な親としての願いを、大変失礼ながらこの場をお借りして、書かせて頂きたい。私は、イタリアで教育を受けている私の子どもたちうちのどちらかが、この分野の勉強をして彼らの祖国日本でそれを役に立ててもらいたいと思っている。日本の言語、文化、風土、宗教をよく理解し、そして精神治療がどのようにイタリアに浸透しているかを学ぶ若者がこの国には必要だと、新聞に目にする少年犯罪を考えるとそのように折ってやまないのである。
2007年12月 1日
