【図書紹介】広田照幸・伊藤茂樹『教育問題はなぜまちがって語られるのか』(日本図書センター、2010・10刊,1500円+税)

「教育問題」を素材にリテラシーを語る
―世にあふれる「わかったつもり」への処方箋―

 この本は、主タイトルよりもサブタイトルが内容を適確に表している。それが「『わかったつもり』からの脱却」。リテラシーについての基本を学びながら、「教育問題」を正しく認識し考え評価するための筋道も見えてくる、という本なのだ。リテラシーを学ぶ入門書として、ぜひ多くの人に、とくに教職員の方々にお読みいただきたい。リテラシーとはまさに《学び方》の過程なのだから。

◆論や観のはるか以前の事実認識の間違い◆
 著者も「本書で読者のみなさんに伝えたかったことは、結局のところ、教育問題についての『リテラシー』を高めることの大事さと、そのためには何が必要かということでした」と書いている。だが、"教育問題についての特別なリテラシー"などがあるわけではない。述べられているのは、情報・知識へのリテラシーを高めて教育問題を正しくとらえることの大事さと、そのために必要な編集的な方法である。
 逆を言えば、「教育問題」がいかにデタラメに語られ、歪んで論じられているかが、リテラシーの基本に照らして、じつに分かりやすく理解できるとも言える。「教育問題」が抱える「まちがい」は、教育の本質や論や観よりはるか以前の問題、つまり事実の捉え方や評価・選択の仕方、問題点の抽出の方法や問いのたて方に間違いがあるのだ。しかもそれは、教育問題のみならずで、さらに論じ伝える側(論者やメディア)にも、情報の受け手の側にも言えることなのだ。だから、「教育問題はなぜ間違って語られるのか?」と主タイトルに掲げながら、書かれた内容の主軸はサブタイトルの「『わかったつもり』からの脱却」にならざるを得ないのだろう。
 もちろん、教育の本質や論や観の「まちがい」によって間違った教育論や政策が主張される例は少なくない。教育論として「教育問題」が抱えている問題点を明らかにしようとすれば、教育の本質やあり方や教育観を述べ、それに照らして批判的に語ることになる。しかし、その教育の本質や論や観のどれが正しいかは、学問上・思想上の論争にもなる。だが、事実認識の「まちがい」は、リテラシーに照らして浮き彫りになる。本書で、教育とは何か、どういう教育が望ましく正しいかということに、あえて踏み込まないゆえんだろう。
  いわゆる「教育問題」は、リテラシーが低い状態で捉えられた事実認識に基づいた世論や政治的主張として語られ、世にはびこっていく。「わかったつもり」の考え方や主張だから、本質論や教育観の正論が通用しなかったりする。見回せば、学校教育には、こういう「問題」がごろごろ転がっていよう。そういう「問題」に気付くためにも、本書は有効だと思われる。

◆学校教育は"「わかったつもり」量産機構"◆
 読んでいて気付かされるのは、じつは学校教育そのものが"「わかったつもり」量産機構"なのではないか、ということだ。例えば、大学生の「コピペ問題」は、その表れのひとつではないか。先生が教えてくれた「正解」をそのとおりにコピー&ペースとすれば花マル100点、というお勉強の積み重ねの"成果"が、大学生のコピペとして実っている!? のではないか。
 大学生たちは、インターネットで得られる情報を、気軽に丸飲みするようだ。情報を疑ったり批判したり検証したりする構えに乏しい。しかし、情報は誰かが「編集」して、情報として流通する。編集するということは、情報素材を取捨選択し、並べ替え、考察し、方向付けして、情報として整えるということだが、この過程で必ず編集するものの意図が潜り込まされる。
 このことに、大学生たちはとても無関心だという気がする。しかし、情報が必ずくぐっている「編集」の過程、その過程で必ず潜り込んでいる編集意図を、しっかり問わないと、編集したものの支配を受け入れることになる。自ら、情報的(知的)な侵略を受け入れ、情報(知)の奴隷になる、ということだ。
 こうした傾向は、"「わかったつもり」量産機構"が生んだものだ。学校教育においては、学習指導要領も教科書も教科編成も教育課程も、意図が込められたものとして編成されている。その意図が、できるだけ公正で憲法の精神にのっとったものであるよう求められるのは当然だが、じっさいには政治的意図に満ちている。その中で、教員がつくる授業案にも教科書の使い方にも教員の意図が入る。もし、その教員の意図が入らないのなら、その授業案も教科書の使い方も「コピペ」ということになる。そういう教員の授業を受ける子たちは、二重にも三重にもコピペを強いられることになる。
 教職員の方々には、この本を読みながら、例えば自分の仕事についてのこんな問い返しをしてほしい。教員とは「教育編集者」なのでありリテラシーの実行者なのだから、リテラシーを身に付けていることを求められている、と言えよう。本書の著者は、教育の本質や教育観への言及を控えながらも、リテラシーを踏まえた事実認識がしっかりできれば、その先に事実認識を越えたものが見えてくる、と確信しているにちがいない。


◆リテラシーは学び方・学ぶ力◆
 「リテラシー」とは、私見を述べれば、《情報・事実にアクセスし、必要な事柄を取り出し(取材し)、評価して選択し(問いを立て考え判断し)、並べ替え(意味を取り出し)、自分なりの答え(意見・見解)を出し、表出する――という一連の行為(編集過程)である。この過程はそっくり、学びのプロセスと重なるものである。リテラシーとは、自ら学ぶ力の内実、つまり「学び方」だと考えてよいのではないだろうか。
 「教育学を勉強したい、教師になりたいといって大学に入学してくる学生に、社会科学的なセンスがまったくなかったりするんだよねー。・・・」「ちゃんと社会科学的な視点を身につけて、教育の問題を考えてくれれば・・・」というのが、著者の本書執筆の動機。このセンスや視点は"「わかったつもり」量産機構"では育ちようがない。それを批判する書として読んでもいい。
 リテラシーとは、けっきょく、自分の頭で物事を考える、つまり自分の頭脳の力を自らコントロールするための方法と考え方だと言ってもいいのだ。

長谷川 孝


2011年8月 3日

PISA2009の結果をイタリアの新聞はどう報じたか??

 12月7日はミラノの守護聖人、サンタアンブロージョの日であり、ミラノ市だけの地方祭である。従って、この日、ミラノ市内の学校、郵便局、銀行は休みに入り、市内のすべての機関がストップする。尚、この日はオペラの殿堂のスカラ座のシーズンオープニングの日である。この日は世界中のVIP達が華麗なドレス、タキシードを身にまとい、スカラ座に集合する。今年はワーグナーの作品で華々しく開幕した。が、スカラ座正面に位置し、イタリアが誇る芸術家兼科学者、レオナルドダヴィンチの石像を中央に構えたスカラ座広場では、大々的なデモが行われていた。その目的は「文化事業、教育機関に対する政府の予算削減」に対する抗議である。確かにこのところの政府の経費削減はひどい。「病欠した先生のかわりをしてくれる先生が足りないから今日も2時間ブランクがあった」「こわれたドアも修理してもらえるお金がない」などと、中学生の私の長女にも目につくほどの、「お金のなさ」である。先日は長男の小学校で、「40ユーロの任意の寄付」の案内があった。

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2011年1月11日

[ブックレット紹介] 教職員のためのセクシャル・マイノリティ サポートブック

【ブックレット紹介】 教職員のためのセクシャル・マイノリティ サポートブック

これは、2010年2月、教職員のためのセクシュアル・マイノリティサポートブック製作実行委員会(奈良教組と性と生を考える会)が出したリーフレットである。人権教育におけるさまざまな課題のなかでも、学校現場としてのとりくみが遅れているといわれている「セクシュアル・マイノリティ」についてわかりやすく記されているおすすめのリーフレットである。
A4版・20ページでイラストなども入ってとても読みやすい。
 私たちは今まで、「混合名簿」や呼称のとりくみを通してジェンダー平等教育をすすめてきた。しかし、セクシュアル・マイノリティの子どもたちのことについて深く考えてきたことがあっただろうか?学校では、男か女のどちらかに明確に区別され、心の性別ではなく、身体の性別で扱われる場面が多々ある。また、異性愛が当然というような場面に出くわすこともある。そういったことに苦痛を感じる子どもが少なからずいるのである。このリーフレットでは用語解説、セクシュアル・マイノリティである子どもへの学校生活の中での支援や家族への支援のポイントなどがわかりやすく記されている。
資料の中にあった「ある青年の手記」に印象的な文章があった。
「『誰もが自分らしく生きられる社会』
ほんの少し、"想像力"を働かせてみることが、そこに一歩近づくのだと、僕は思う。」
 相手が今何を思っているか?どう感じているか?といった"想像力"を働かせること...これは「人権教育」の基本ではないだろうか!?

※ 購入については、1部100円(送料別)で奈良教職員組合(tel0742-64-1020 fax0742-64-1023)に連絡を。


※ このリーフレットは以下のインターネットサイトからダウンロードできるよう準備中。

奈良教職員組合 http://www1.ocn.ne.jp/~jtu-nara/

性と生を考える会 http://nara.cool.ne.jp/say-to-say/


2010年3月10日

【図書紹介】生井久美子『「ゆびさきの宇宙」 福島 智・盲ろうを生きて』(岩波新書、2009年4月)

 「盲ろう者」として日本で初めて大学に進学し、いくつものバリアを突破して東大教授となった福島智さんをおよそ4年間にわたって追いかけ、インタビューはもとより、様々な場面への同行取材を基に書き下ろした一冊である。そうとは言いながらも、読み終えた時の率直な感想は、生井さん一人が書いたものではない、何人もの大きな力がこの本を作り上げたのではないだろうかというものだった。私が感じたことと全く同じことを、生井さん本人が「あとがき」の最後(256頁)に記述している。

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2009年9月14日