総研ノート:コラム

再び携帯電話のこと

以前、このコラムで携帯電話のことを書いた。しつこいけれど、再びそれにこだわってみたい。というのも、携帯電話というのは、おそらく私の世代、つまり 1960年代に子どもであった世代にとっては、未来を象徴する機器であり、あり得ないかもしれないけれど、あってほしい機器だったからであり、その憧れの機器がこんなにも普及したことに、ひたすら感動しているからである。ウルトラマン、ウルトラセブンと続くテレビ番組において、腕にはめた通信機(しかも相手の顔が映る)でどこにいても自由に話ができる、あの機器は、子どもたちのもっともほしいもののひとつであった。それが実現したのだ!! (くどいですが)

腕時計のようではないけれども、電話というかたちで実現したその機器は、しかし、普及してみると、実はそんなに便利なものではなく、また、どこにいても自由に会話ができるものでもなかった。といっても、電車の中で会話ができないことに文句があるわけではない。ここで問題にしたいことは、誰とでも自由につながる道具と思いこんでいたけれども、実際の場面では、相手を拒否する道具になっている、ということである。

ふだん大学で学生と接し、かれらの携帯への対応を見ていると、知らない番号からかかってきた電話には出ないということが多い。「誰だ、これっ? 知らないなぁ?」と言って、電話に出ることはしない。つまり、自分の携帯に記憶させている相手としか会話をしないということなのである。一度記憶させれば、着信は、相手の名前で表示されるわけだから、番号は全く意識にのぼらない。そこに番号表示の着信が表示されれば、「誰だ?」ということになり、出る必要なしと判断されるわけである。つまり、知っている相手としか会話をしないということである。いつでも、どこでもつながる可能性をもつ携帯電話が、逆に、非常に限られた範囲でしか通用しない道具に、実質的に変質させられているわけである。やや強引に、ここから、現代の若者の人間関係のあり方を特徴づけることもできそうだと思う。私の知っている大学生の多くは、いろんな人との出会いを大切にしたいとよく口にする。それは、一面ではその通りなのであるが、そのベクトルは、ある程度のところで内向きに逆転し、外との壁を高くしていく。

しかし、これは健全な防衛策なのかもしれない。つながりが広がりすぎることでさまざまな犯罪に巻き込まれることは、ここで詳しく述べるまでもないだろう。地球規模で自由につながることのできる道具を手に入れたことは、憧れの未来社会の姿なのではなく、そこから身を守らなければならないような危険な社会の到来だったのである。

そういえば、テレビの中の腕時計型通信機も、科学特捜隊やウルトラ警備隊のメンバーだけのものであった。

運営委員 池田賢市

2007年4月30日