総研ノート:海老原教育理論と日教組運動

私と海老原先生

私が先生とお会いしたのは、1978年か79年の頃である。それまでは、『日本教育政策史』を著わされていた教育政策研究の第一人者として、名前しか知らなかった。

それまでは持田栄一先生(東京大学)が主宰されていた「教育計画会議」に、東京教育大学大学院の研究室先輩であった岡村達雄さん(現在、関西大学)に連れられて参加しており、日教組運動に深く関わっていらした海老原先生とはちょっと立場の違う研究会で学んでいた。大学院生の頃である。


先生が久保義三先生と中心的役割を担っていらした教育政策研究会の研究会
(場所は専修大学神田校舎12階社会科学研究室で、1980年代後半〜)

ちょっと横道にそれるが、私が所属したのは東京教育大学教育学部大学院伊藤和衛先生の研究室であった。実は伊藤先生は、日教組の全国教研の講師団の中心的役割を果たしていた宗像誠也東京大学教授と、学校運営のありかたをめぐって論争をされていた方である。

「宗像ー伊藤論争」あるいは「単層ー重層構造論争」と呼ばれた論争に一方の当時者の先生であった。伊藤先生はよく「日教組の組合員から多くの批判の手紙がきたよ」と話されていた。伊藤先生は持田先生とは仲良くされており、研究会も一緒にされことがあった。

さて、話を戻そう。
実は1978年7月27日に持田先生がお亡くなりになられた。享年53歳という若さであった。教育計画会議に参加していた東大の院生(瀬尾さん、清原正義さん、山本馨さんなど)と共に、持田先生にかわって、研究上リードしてくださる研究者が必要だということになり、海老原先生に研究会を立ち上げて欲しいというお願いをした時がはじめてであったと思われる。実に頼りない記憶であるが、そのお願いをして以降、先生が東京で和光大学での教え子と一緒にされていた「教育政策研究会」に私たちが参加しようということになったと思われる。この間のいきさつは定かではないので、次号で訂正する可能性もある。その時にはご容赦あれ。

2回目か3回目の時には、国分一太郎さんも参加されていた。残念ながら、十分にお話を伺う機会はなかった。

この教育政策研究会に参加して2年ほどが経過したとき、海老原先生から日教組の第二次教育制度検討委員会に入って協力してくれないか、という話があった。清原正義さんが姫路工業大学(現在は、兵庫県立大学)に赴任されていなければ、おそらく彼が入ることになっていたであろう。

1981年12月1日、太田堯都留文化大学長を会長、小川利夫名古屋大学教授を事務局長とする同委員会が発足。私と日教組との四半世紀に及び長いつきあいはここから始まったのである。

したがって、本論は私が直接に海老原先生に触れた第II期から書き始めることにしたい。
ただし、これまでの記述から分かるように、第II期の前半にはまだお会いしてはいなかった。

代表・嶺井正也(専修大学教授)

2006年10月 1日