総研ノート:世界の各地から

イングランド公教育改革の舞台裏―義務教育年齢引き上げと社会変容―

義務教育年齢の法改正
 
 2007年6月、ブラウン政権が発足し、教育技術省は子ども・学校・家庭省と再編成され、ブラウン政権による新しい教育改革の舞台の幕があけられたのである。まず、その改革のひとつとして、2007年11月、政府は、イングランドの義務教育修了年齢を現行の16歳から18歳へと引き上げる方針を発表した。そして、翌2008年、Education and Skills Act 2008により法改正がなされ、義務教育修了年齢を2013年まで17歳、2015年まで18歳と段階的に延長されることが正式に決定された。義務教育修了の年齢改正は、1972年に、義務教育年齢が15歳から16歳に引き上げられて以来36年ぶりの法改正となる。従来、イングランドの義務教育は、原則として、子どもが5歳の誕生日を迎えた次の学期からはじまり、5歳から6年間を初等教育、16歳になる7月までの5年間の中等教育と定められており、義務教育最終学年に、GCSE(General Certificate of secondary Education)とよばれる試験を受け「義務教育修了」が認められる。
 
 この新たな法改正によって、イングランドの16歳以上の若者は、就学を希望するものは中等学校等で引き続き学習を続け、就労を希望する若者、あるいは就労中の若者には、義務教育期間として週20時間の労働とともに職業訓練や就労に際して必要な技能実習が与えられるなど、本人希望にあわせ、また各々の能力・適正に応じて進路の選択が可能になる。

年齢引き上げの背景~経済界の意向

 では、なぜ政府がこのように義務教育年齢を引き上げるという改革が必要であったのか、そこにはそれなりの理由がある。その舞台裏はこうだ。
 まずその一つは、ここ数年、急激に若者の失業率が増加したことにある。この若者と失業率に関しては背後にイングランドの社会的、経済的要因がある。2008年10月、サブプライム問題を端に発した世界不況が訪れるまでの過去10年、英国の経済は活気に満ち、まさに英国のバブル景気到来といわれていた。その経済にさらなる勢いをかけるかのように、科学、通信技術の発展やグローバル化が英国の経済成長を助長し、イングランドに世界中の資本が集まるまでになっていた。経済活動が活発化する場所には、旧東欧諸国やヨーロッパ等から、開かれた、活気のある労働市場を目指し、多くの移民が流れこみはじめた。多くの非熟練労働者たちは、ポーランドなどの旧東欧諸国、旧共産系の高いレベルの教育を受けた技術や資格を持つ若者たちであった。

 一方で、イングランドの若者は、経験や知識不足に加え、技術も資格も持たず、結果として、非熟練労働者の労働市場は、高い技術力や知識をもつ多くの移民たちで埋められていくという現象が現れた。このような状況の中、英国ビジネス界は、英国が国際経済競争に勝ち抜くためには、自国において、より高度な知識や技能を有する労働力が必要であると考え、より多くの若者が高等教育へ進むことが重要であり、また高等教育機関に高い「質」の労働者育成を求めはじめた(しかし、実際は、そこには理想と現実の間に大きなギャップが生まれただけであった)。
 
 政府が、義務教育年齢延長を模索していた2007年初め、当時、教育大臣であったアラン・ジョンソンは、「義務教育年限の引き上げは、個人の利益のみならず、イングランドの経済や社会に大きな利益をもたらす。」との見解を示した。 (参照)

 2007年3月に提出された「高まる期待」と題された政府提案書の中では、義務教育年齢を延長することにより、個人の利益のみならず、社会や経済への利益ばかりでなく、イングランドの教育全体を活性化させると明言している。 (参照)  
また、政府の最終目標として、2015年までに17歳人口の90%が学校教育等あるいは職業訓練の状態にあることを目指しており、義務教育年齢を延長することで、教育が充実し、国民の知識、技術、基礎能力を全体に高めることによって、高い技術や知識をもつ労働力を確保し、国際競争力を増大させ、柔軟に雇用市場に対応できるとの政府見解である。

もう一つの背景

 舞台裏にはもうひとつの理由がある。当時、ジョンソン教育大臣が「若者たちを犯罪に巻き込む機会を少なくする。」と述べているように、2007年から10代の若者たちによるナイフによる犯罪が急激に増加している。特に2008年に入ってからの状況は悪化をたどり、ロンドンやマンチェスターなどの大都市部の問題のある地域では金属探知器をとりつける学校が増え続けるという状況が続き、若者によるナイフ犯罪の問題の深刻さを浮き彫りにした。さらに、イングランドでは、アルコールや麻薬乱用の治療を受ける若者の数がここ数年特に増加し、失業、犯罪、麻薬と、若者をめぐる問題は複雑化し、政府が取り組まなければならない課題は山積みであった。

 ここまでの社会状況と政府の対応政策を見ていくと、英国教育史上、気づかされることがある。この現代の状況、19世紀の英国の子ども・若者たちを取り巻く状況や教育政策に非常に類似する点がある。イングランドでは、1870年Education Act of 1870という教育法成立により、8歳から13歳までの子どもたちに義務教育が実施されるようになったのであるが、イングランドの義務教育制度の成立には、当時の19世紀の近代産業革命が大きく影響していた。
 
 この時代、街には工場で働く親たちを持つ子どもたちがあふれていた。これはまさに、ディケンズの「オリバー・ツイスト」に登場する子どもたちのように、子どもたちは大人と一緒に、たばこやお酒を楽しんだり賭け事をしたりする一方で、貧しさから過酷な労働を強いられており、当時のイングランド社会の病弊を象徴するものであった。そして、この状況をなんとか変えなければならないと、その対策に乗り出したひとりがロバート・オウエンであり、彼は街にあふれる子どもたちを過酷な労働や劣悪な環境から守るため、幼い子どもたちの雇用や長期労働の禁止、子どもたちの人権を尊重し、さらに学習の機会を保障した工場法制定へ働きかけた。

 1802年に最初の工場法が設立し、その後、子どもの学習権が保障されることとなったのである。これら一連の動きが、後にイングランドにおける公教育制度および義務教育制度成立へと続くわけであるが、この当時は、国家および産業発展のために、近代学校教育は、産業資本や国家が求める知識や技能を子どもたちに詰め込むことを目的とし、また同時に、子どもたちに正しい生活態度を伝達するという道徳環境への囲い込みでもあったということは周知の事実である。 

義務教育年齢引き上げの成果は?

 あれから200年以上が経ちまた同じような動きがイングランドで始まった。2007年に発表された義務教育年齢の引き上げは、多くの若者に就労の機会を高め、生涯賃金を増大させ、生活の向上をもたらすのみならず、若者が麻薬やその他の犯罪に巻き込まれる可能性を低くするとの政府の見解があった。

 その一方で、イングランドの2007年の統計によると、5人に1人の割合で、初等教育を終える11歳の子どもたちが、読み書きができないというショッキングな状況が示されている。 (参照)
つまり多くの子どもたちが、読み書きができないまま、中等教育へと進んでいくのである。5人にひとりは中等教育に進んでも、勉強についていくことが難しく、結果として、学校教育からドロップアウトする。16歳で義務教育を修了しても、技術も資格も基礎学力も持たない若者たちには雇用もなく、若者の失業率は悪化をたどり、若者たちはアルコールや麻薬乱用し、ナイフを持ち、街にあふれる犯罪予備軍になるという構図が生まれるのである。それを食い止めるために、政府は対策を講じなければならず、「義務教育」とのいう名の下で、とりあえず問題のある若者たちを囲いこむ方法が一番てっとりばやいと考えたのであろう。

 しかし、単に義務教育年齢を延長したところで、これらの問題が解決されたわけではない。実際、「今」の学校現場が直面する問題に直視することなく、さらにどのような人材を育てるのかというビジョンもなく、単に義務教育年齢を引き上げるだけでは、いっこうに問題は解決されない。

 それよりもむしろ、なぜ若者が、知識も技術も資格も持たず学校現場を去ることになるのか?なぜ犯罪に関わる多くの若者たちが学校からドロップアウトするのか?ということの答えが、効果的な対処策を導き出すのである。それは実にシンプルである。イングランドの多くの若者たちが、個人に適した学習機会が与えられず、「スタンダード」と称する到達不可能な学習ターゲットをナショナル・カリキュラムとして枠組みされ、正当ではない「アセスメント」とよばれる全国統一試験により評価されることで、学校教育の早い段階で落ちこぼれ、知識も、技術も資格ももたず学校を離れるという事実があるからである。実際、システムの問題、カリキュラムの問題、さらに評価の問題を問わずして、単に義務教育年齢を引き上げるだけでは、問題を抱える子どもたちや若者の苦痛を延長するだけにしか過ぎないのではないだろうか。

全国統一試験に校長組合も反対
 
 2009年、5月上旬に行われた全国校長組合の定期総会で、11歳で実施される全国統一試験の参加拒否に賛同するかどうかの投票が実施され、ほとんどすべての校長たちが、本年の11歳の全国統一試験をボイコットする意向を示した。その前月、4月の全国教員組合の定期総会の投票結果でも、多くの教員が11歳で実施される全国統一試験ボイコットに賛同しており、今秋から11歳の全国統一試験が多くの学校で実施されなくなる様相である。全国統一試験に関して、政府は、昨年10月、2008年限りで、14歳での全国統一試験を廃止することを決定したものの、11歳の全国統一試験廃止に関しては未だ難色を示している。実際、多くの教員が、11歳での試験と詰め込まれたカリキュラムによって、どれほど子どもたちが傷つき、また多大なプレッシャーを感じているとかを指摘している。 (参照) 
また多くの教員たちが、子どもたちの学習に必要な知識や教科を教えるというよりも、試験にパスするための教科やその技術を教えているだけにしかすぎないと感じているという。

 全国校長組合で、ある校長が、マスコミのインタビューに答え、教育を最重要視するとした労働党政府の教育政策は「エデュケーション!エデュケーション!エデュケーション!(教育!教育!教育!)」と喧伝されたが、実際のそれは「レギュレーション!レギュレーション!レギュレーション!(規制!規制!規制!)」でしかなく、現在のイングランドの公教育、学校現場が抱える問題がいっこうに解決されないことに憤りを覚えるとのコメントがあった。

現場の声に耳を傾ける時
 
 先述したように、義務教育年齢引き上げも重要かもしれないが、それよりもむしろ問題の多くは、学校教育の初期段階である初等教育におけるカリキュラムや評価にあり、子どもたちの能力や適性にあった学習機会が与えられ、子どもたちの学習意欲が持続できるような学校教育を、公教育で実施することこそが重要なのである。多くの教員が投票したように、学校現場が抱える問題を、毎日、目の当たりにしている教員の声に耳を傾けるときが来ているのではないだろうか。

参考文献
Gillis, J. R. (1981), Youth and history : tradition and change in European age relations, 1770-present. (Expanded student ed.). New York ; London: Academic Press.
Humphries, S. (1981), Hooligans or rebels? : an oral history of working-class childhood and youth 1889-1939. Oxford: Blackwell.
Simon, B. (1965), Education and the labour movement, 1870-1920. London: Lawrence & Wishart.

西田 幸代(前ロンドン大学教育研究所研究員)

2009年5月29日