総研ノート:書評・図書紹介

特別支援教育を超えて

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「個別支援」でなく、行き合う教育を
●編著:徳田茂
●発行:現代書館
●体裁:B6判/221ページ
●定価:1600円(+税)

章立てと執筆者、そして文章のなかで印象に残った部分を紹介しておこう。

第一章 共生への願いを確かなものに 徳田 茂
……先生方にお願いなのですが、自分たちの目の前にいる子どもたちと共に生きる陟ことはもちろんことなのですが、これから自分たちの学校に入ってくる子どもたちの中に「障害」のある子どももいるはずだ、という思いで迎えてほしい。子どもが自分の学校に来てから取り組むというだけでなく、子どもが学校に来る前から、自分の学校の校区の中に「障害」のある子がいるのではないか、を考えるところにまで視野を広げていただきたい。

それから「障害」児の親と、是非深く繋がってほしいと思います。「共に生きる」ということは親だけでできる話ではありません。たぶん先生たちだけでもできる話ではないと思います。親と先生が一緒になって語り合って、力を合わせていく。そういう中でこそ、「共に生きる」の内容が、より広がりを持ってくると思っています。


第二章 生き方の問題としての、共生教育 徳田 茂
「特別な教育的ニーズ」についてもっと端的に言ってしませば、「障害」のある子にとってもっとも大きなニーズは、差別しないでそのクラスの一員としてしっかり受け入れてほしい、そしてクラスの活動に参加させてほしい、ということでしょう。いらぬ特別扱いやお節介は控えてもらい、クラスの一員としてきちんと位置づけてもらい、それぞれの授業やクラスの活動に参加できるような援助があれば、多くの「障害」児は普通学級でかなりの程度やっていけます。いじめや排除がなく、クラスの一員として先生からも仲間からも大事にされていると感じることができれば、多くの「障害児はその持てる力でその子なりに育って行くはずです。「特別な教育的ニーズ」の強調は、子どもたちが本来持っている一緒に生きる力、ときに支え合いときにぶつかり合いながら生き合い育ち合う力の軽視につながるおそれがあります。学校という場だからこそ起こるダイナミクスに大人の目が向かなくなることを、私を強くおそれています。

第三章 助け助けられして、地域で生きる 高野弘美
私は功裕が生まれるまで、障害のある人と接したことがありませんでした。学校生活の中でも、近所にも障害のある人はいませんでした。遠い施設や、養護学校に分けられたい、家に閉じこめられていたために、目にふれなかったのだと気づいたのは、ずいぶん大人になってからでした。気づいてからも私は、積極的に障害のある人と関わろうとしませんでした。差別をしない人間でありたいと思っていましたが、関わらずにすむのならそのほうが楽だな、と思っているところがありました。そんな生き方をする自分はずるいのでは、とうすうす気づいていましたが、追求することはありませんでした。

功裕が生まれて私は自分の弱さ、ずるさと直面しました。激しいショックを受けながら、自分は障害のある我が子と一緒に、この社会で分けることのない人間として生きていくのか、今までと同じように目を逸らして逃げるのか、ということを自分自身に問われているのだと感じました。
<中略>
功裕の生後二週間の間に、いろいろな人との出会いと支えがあり、私は逃げないで生きていこうと決意しました。障害があるからといって、家族から離されたり、地域から分けられていいはずがない。私はこれまでの自分のように、気づかないふりをして差別している人間に戻りたくない。そうならないように生きていこう。そう決心しました。この思いが私の原点になっていると思います。

第四章 しょうがいを持った子と生きる 中道良美
いま、小学校生活が終わって思うのは、普通学級でやってきたよかったということです。障害児学級や養護学校に行けば、それはそれで楽しいこともたくさんあるのだろうと思います。けれど私は普通学級でやってきてよかった思っています。

六年前の就学のとき、普通学級にしようか障害児学級にしようかと揺れていた私の心を、傾けさせてくれたのはいつも、「人が人を分けるのはおかしい。人を分けてはいけない」という言葉でした。六年間でこの言葉に対しての確信をあたためつつも、逆に現実の中でこの言葉どおりに生きていくことの難しさも嫌というほど味わいました。

私は分ける側の人間になりたくない、そう思えば思うほど現実とのギャップ、矛盾が大きくなり、混乱してしまったことも幾度となくありました。

第五章 クラスメートとともに─普通学級で生きるA─ 中澤一弥
朝、お母さんがAを連れて登校。朝の会、健康観察でA、元気に「アイム グレイト!」(ちなみにAが当番の日は、気合いが入った声で司会をする)。一限目、転校生が来たので自己紹介完了、二限目クラスの係決め、なんだかんだとクラスでもめながら決定。Aは「黒板係」になった(Aの希望を近くの子が、さっと聞きにいっている。ちなみに七月までは音楽係)。三限目書写、教頭先生が出ている。書写は時間割を都合して特別支援としてもう一人先生がもう一人来ている。四限目はAの大好きな音楽。クラスメートが必ずAを同じ階の音楽室へ連れて行く。さあ、給食。Aは好き嫌いなく食べるが補助が必要だ。毎日担任をしていない先生、教頭先生が補助に入れ替わりで来ている。給食後、明日の予定と宿題を連絡帳に書く。Aの連絡帳は周りの子が書いている。誰も書いてくれないときにはAが頼んでいる。自分で困ったときには友だちに言葉をかけている。給食後の休み時間。他の学年の先生が一週間交代でAのオムツをかえに来てくれる。当日は、五限の体育がプールなので着がえもしてくれた。隣の教室は空き教室になっており、その一角をAの着がえやオムツがえのために部屋を仕切ってある。オムツをかえるための台は学校長の手作り。Aの大好きなプールの時間。特別支援の先生(ほか数時間、実技科目のとき、その先生が五年一組に入っている)とスクールサポーターの方がAと泳ぐ。

第六章 しっかりと地域に根を張っていきたい 北野祐子
担任の先生は、「受け持ったばかりのときは一対一だったらどんなに伸びるだろうと思っていたけど、拓のことがだんだん分かってくると、友達がしているからやる気になるし、友達が励ましてくれるから頑張ろうとする。みんなのすることを見て学習する部分が多いと感じる。だから、できないから別の部屋へ、というのは違うような気がする」と言って下さいました。いつも関わっている担任の先生の考えを変えさせたのは私ではなく拓なのです。私がいくら訴えるよりも、関わることでことで人の気持ちを変えてしまう拓はやっぱりすごい、私はなんて無力なんだと思いました。

第七章 「障害」、その言葉が言えなかった 山本有里子
“「障害」のある子”と言えなかったことや、親戚の人たちに子どもたちを会わせなかったことは、自分の中に隠していたことで、誰にも言うことができず、つらいことでした。でも、それをさらけ出したことによし、私の奥にあった気持ちもわかってもらえ、いまはホッとした気持ちでいます。

これまでの私は、人の表面の部分しか見ることができず、その奥にある気持ちなどは見ようともしませんでした。でもいまは、内面あるものは何かと思い、考えるようになりました。人の気持ちのありがたさがわかり、周りにいる人たちの思いを大事にしようと思うようになりました。

「障害」のある二人の子どもたちのことを、もう一度見つめ直していくことは、同時に私自身を振り返ることでした。今回のレポートで、自分の気持ちを確かめることができ、良い機会を与えてもらったと思っていました。

第八章 この子たちがいてくれて自分がある 山本昭雄
でも、障害を持った子どもたちを取り巻く現実は、まだまだ分けられているように思います。私たち家族は、分けられていることに違和感を感じ、とにかく、 “みんなと一緒に”にこだわってきました。以前は、私たち親が障害を持った子どもたちを地域に繋げ、私たち親の努力で地域に生きているように考えていましたが、年を重ねる毎に私は何もしていないことに気付きました。私たちは、自分たちは、自分たち家族の居場所を求め、子どもが地域の友達と一緒に生きて行ける場所を求めていただけなのです。子どもたちがいまここにいることが出来ているのは、雅也、陽菜それぞれが持つ自分の力、人間直で自分たちの居場所や人間関係を築いてきたのだと思います。その中に私たち親は入り込むことも出来ませんし、何も出来ないのです。

もしこの子たちがみんな(健常な子どもたち)から分けられていたら、いまの雅也も陽菜も私たち家族もなかったと思います。この子たちがいて、私たち親が変わり、友達が変わり、学校が変わり、地域が変わったのだと実感しています。ですから、この世の中の障害を持った子どもたちみんなが雅也や陽菜のように分けられることなく過ごせるようになったら、きっと世の中全体が変わると思います。きっと世の中が優しくなると思います。健常な子どもも、障害を持った子どもも、みんな望まれ必要とされ、みんな意味を持って生まれてきたのです。

嶺井正也

2007年9月30日