総研ノート:書評・図書紹介
自分自身への審問
●著者:辺見 庸
●発行:毎日新聞社
●体裁:B6判/189ページ
●定価:1143円(+税)
元共同通信記者。現在、作家。記者時代、北京特派員、ハノイ支局長、編集委員を歴任。在社中の1991年、『自動起床装置』で芥川賞を受賞。退社し作家に転身。旺盛な著作を続ける。脳出血に倒れ、癌に冒され、ようやく“生還”。現在、己の心身に鞭打つように執筆・講演活動に再度、挑み続けている。
こうして、著者・辺見庸のこれまでの踏み跡を極めておおざっぱにたどってみるだけで、私には、一人の人間が「生」と「死」の境界線をさまよい、「ノンフィクション」と「フィクション」の境を往復する姿がありありと見えてくる。戸惑いと苦悩が行間に沸々と泡立つさまを思い描き、正直、いささかつらい読後感を抱いてしまう。
「生」と「死」の境界線をさまよう? これは、あまりにも数多くの実例があるに違いない。「ノンフィクション」と「フィクション」の境を往復? こちらは若干、説明が必要だろう。新聞記者は言うまでもなく読み手に向かって「事実」を可能な限り正確に伝えようと心を砕く。その行為の中身が問われ、値打ちが問われる仕事と言えるだろう。作家は事実をもとにするにせよ、そこから発して想像力や感性を磨き抜き、やおらペンを執る。イマジネーション豊かな才能の持ち主でなければ、世に一人立ちは出来まい。だがしかし、取材記者は、ある事実に迫ろうとするとき、また、ある人間像に迫ろうとするとき、「ノンフィクション」の世界から「フィクション」の世界に一歩、いや半歩でも踏み出したいという誘惑にそそのかされることがある。事実誤認にならぬよう留意しつつ想像力をふくらませたくなるのである。そうしないと実像が描き切れないと思い詰める場面が決して少なくないのだ。
比較するのはまことにおこがましいことだが、私自身、文章をもって自己表現を試みつつある者、あるいは、そうしたいと願望を抱く者の一人。だが、書き続けてきた過去、そして現在をふと重ね合わせると、どうすればこの著者のように感情を揺さぶられる言葉あるいは文章を我が物に出来るのかと、つい嘆息し、しばしば嫉妬に近い感情を抱くのである。
例えば著者は、自身の病苦をこう綴る。
《心身の苦痛にさいなまれながら憤死でも狂死でも愧(き)死でも餓死でも横死でも刑死でも拷問死でもない死、すなわちお前がひどく恐れていた、無意味な苦痛がともなうだけの、凡庸で退屈な終わりの時がいまはじまりつつある。(中略)お前はそれでいいのか。本当にいいのか。あたえられた死ではなく、自ら選ぶ死でなくてもいいのか。》
と。しかし、「死」をすぐ目の前に見据え、苦渋に満ちているともとれる言葉を連ねておいて、この人物は、一転、日本の政治の現況を捉え、到底、病者とは思えないエネルギー十分の憤怒を表しながらペンの冴えをあからさまにするのだ。
《「政治の幅は常に生活の幅より狭い」。ある文学者のアフォリズムを思い出し、わが身に引きつけて吟味してみたりした。個人の生活の重みは、病にせよ恋にせよお金にせよ、政治のそれを圧倒する。そのことを確かめ、しかし、さはさりながら……と口ごもった。半身の麻痺、無感覚に悩みつつも、やはり、歴史が大きくうねり曲がっていくのを感じないではいられなかったからだ。
故岸信介首相はかつて「自衛隊が日本の領域外に出て行動することは一切許しません」と公言している。「海外派兵はいたしません」とも言明した。いま、事態はどう変わったか。自衛隊は大挙してイラクに駐留し、憲法九条は、内閣総理大臣を最高指揮者とする「自衛軍」を保持する、と改定されようとしている。さらに、「国際社会の平和と安全を確保するために」と称し、海外での武力行使も可能にするべく改憲作業が進んでいる。ガラガラと何かが崩れ、政治家の三百代言を指弾する論調は萎(しぼ)むばかりだ。
もっと麻痺を楽にしたい。右手で字を書きたい。箸を持ちたい。私の願いは切実である。だが、「政治の幅は常に生活の幅より狭い」などと嘯(うそぶ)いてばかりもいられなくなってきた。もう楽園のような平和憲法の精神にたち戻ることができないかもしれないのだ。苛烈な歴史への道に、いま入りつつある。(中略)
先日、内視鏡の写真を見せられた。赤茶けた腫瘍がいつの間にか全容を捉えきれないほど膨(ふく)れていた。「長く放置していたからですよ」と医師が語った。恐らく、政治の癌もそうなのだ。生活の幅より狭いはずなのに、政治は生活を脅かしつつある。もう帰れない。どこに行くのか。思案のしどころだ。》
著者は、また、書名にもなっている「第五章 自分自身への審問」の中でさらに自分自身を追い詰めていく。
《いま、機会を失うと、永遠に自己審問はない気がするのだ。いま、たったいま、自分を問われ、答えることが、私にとってとても大事なのだ。自殺願望というが、いまは何より審問を優先すべきだと思う。(中略)大量虐殺や侵略およびそれらへの直接、間接の協力、荷担、無批判、沈黙といった自明的罪ではなく、誰もがわれ知らずかかわっている、ある種の透明感のある罪ならぬ罪。透きとおった菌糸のような、何人も咎(とが)めえぬ、むしろいわゆる良民から広く支持されたり人気を博したりする罪。そのほうが、自明的罪よりも罪深いのではないか、と私は思い始めている。(中略)
教えてくれ。是非とも教えてほしい。罪名は何だ。その罪による罰は何なのだ。最終審判までに罪と罰を避ける道はあるのだろうか。》
著者の苛烈な言葉の数々は、我われ自身への「審問」なのではないか。「自明的罪よりも罪深い」行いを重ね、真の敵を見失い、抵抗力を自ら弱めてきた我われに向けた苛烈な「遺言」と、私は読む。
村上義雄(ジャーナリスト)
2006年7月30日
